2016年4月の熊本地震で甚大な被害を受け病院避難の事態に陥った熊本市民病院では、本震発生の13時間後には入院患者を全員避難させた。一部の入院機能と外来で診療を続け、19年に「災害に強い病院」の拠点として移転、建て替えを完了。25年には災害拠点病院の指定を受けた。建て替え工事中、機能縮小のため遠方も含む他院や行政機関に出向した職員たちは新病院完成とともに同院に戻り、災害に強い病院の運営に尽力している。地震発生当時院長(病院事業管理者兼務)を務め、現在は顧問として職員を導く田明氏に話を聞いた。
【2度の震度7の地震で病院避難の事態へ地域連携を駆使しスムーズな避難を実現】
■耐震基準と向き合うなか熊本地震に襲われる
熊本市民病院は1946年に熊本市立民生病院として開院。同院のある熊本市東区は、熊本市の市街地と、熊本地震で最も被害を受けた熊本県益城町の間に位置する。
診療科目は34科、二次救急を担い、地域の基幹病院としての役割を果たしていた。小児と周産期医療には特に力を入れており「総合周産期母子医療センター」では超低出生体重児を多く受け入れ、心疾患等の合併症を有する乳幼児や救急救命管理を要する異常妊娠の分娩、合併症のあるハイリスク妊婦を県内外から数多く受け入れてきた。
地震発生時の同院の建物は、79年完成の南館、84年完成の北館、2001年完成の新館で構成されていた。02年の耐震診断で南館が耐震基準を満たさず、北館も耐震強度が十分でないと指摘を受けていた。
病院建替え計画が持ち上がり、設計や建築の業者選定まで完了していたが、11年の東日本大震災や13年の東京オリンピックの開催決定によって建て替え費用が大幅に高騰したことで計画が見直されていた最中に、熊本地震に襲われた。
■本震で決定的な打撃を受け「病院避難」を決断
16年4月の熊本地震は、14日21時26分の前震(マグニチュード6・5、熊本県益城町で震度7)の発生後、16日の深夜1時25分に本震(マグニチュード7・3、益城町および西原村で震度7)が発生。
震度7の地震が同一地域で連続して発生するのは、震度7が設定された1949年以降、全国でも初めてのこと。
熊本県益城町で観測された揺れの大きさは計測震度6・7と国内観測史上最大だった。しかも、前震、本震だけでなく、大きな揺れが絶え間なく続いたことも想定を超え、対応を難しくした。
4月14日21時26 分の前震では新館の天井の一部が崩落、南館と北館の壁に亀裂が入るなど多少の被害があったものの、ライフラインは問題なく使用できた。
南館1階に対策本部を、正面玄関と時間外出入り口付近にトリアージセンターを設置して、殺到するケガ人の対応にあたった。外傷以外にも心不全や肺炎などの救急患者を含め、前震から本震までの間に救急車62台、患者317人を受け入れ、5件の緊急手術を行った。被災した東熊本病院(益城町)から入院患者の受け入れも予定していた。
しかし、16日深夜1時25分に本震が発生し、前震よりも大きな被害を受けた。
大きな揺れとともに轟音が響き、病棟にはガラスが飛散、電気、ガス、水道といったライフラインがすべてストップ。電気は自家発電に切り替えて1時間ほどで復旧したが、屋外にある受水槽の屋根が破損し外気や雨に触れたため、医療に使用できる水が供給できなくなった。建物の損壊の程度が確認できるまで、入院患者をすべて1階に避難。エレベーターも停止していたため階段を使用し、歩けない患者は職員がシーツを担架代わりにするなどして運んだという。
午前6時頃「これ以上安全な診療の継続は不可能」と判断し、すべての患者を転院し避難させる「病院避難」を決断。本震発生時から重症患者を優先して転院を進めていたが、これ以降、すべての患者を転院、退院させることとなった。
■日頃の地域連携がカギに、310人の避難を8時間で
当時同院には入院患者が310人いたが、本震発生当日の14時すぎにはすべての入院患者の転院と退院が完了している。
熊本地震発生時に院長を務めていた田明顧問は当時を振り返り、「病院避難決定から8時間で転院・退院が完了できた背景には、熊本市周辺の医療機関同士の連携体制の強さがあります。普段から顔の見える連携と役割分担ができているため、被災直後も、患者さんの重症度に合わせてどの病院に転院を依頼するか、各診療科で検討し手配を進めることができました。
当時、病院避難に陥った病院が当院を含めて3院ありましたが、スピーディーに情報共有し、転院の采配をスムーズに行うことができました。さらに、前震で熊本に駆けつけていた全国の救急隊やDMATが熊本に多数残っていたので大変助かりました。新生児や出産間近の妊婦の一部は県外への転院の手配が必要になりました。支援いただいた組織の皆さんにとっても初めてのミッションとなったことにも創意工夫で対応してくださり、人工呼吸器管理中の新生児はヘリコプターで九州管内の大学病院や自治体病院などへ転院することができました」と話す。
■病院建替えまで24床で運営、出向職員を励まし乗り切る
16日の午後2時に病院避難を完了した後に建物の状況を確認して18日には屋外で処方箋の発行を、28日には外来診療を開始した。被災直後から避難所の巡回、患者の転院先病院への訪問、他施設への職員派遣などを行った。職員のなかには、自宅が被災し車中泊や避難所暮らしをしているにもかかわらず、「今できることをしたい」と、避難所巡回に参加するスタッフもいた。
新病院建築が翌月5月に決定し、2019年10月に新病院を開院した。その間の3年半は、被害を受けなかったカルテ室や医局を改造し、外来と、一般病床10床、NICU9床、GCU5床の24床で運営を続けた。県内には周産期医療センターが3つのみで需要が高いため、周産期医療に特化した。
被災した病院で勤務する職員以外に約100人が熊本市役所へ、200人以上は熊本県内や他県の病院へ出向することとなった。なかには沖縄県など遠方の病院に配属される職員もいたという。
出向先の約20病院すべてに世話役となる職員を置き、出向職員のサポートやケアを行った。田顧問も出向先の全病院を定期的に巡回して職員を励まして回った。こうした手厚いケアも奏功し、新病院で診療を再開する際にはほとんどの職員が戻ってきたという。
■耐震では不十分と実感 「災害に強い病院」をつくる
病院建て替えについて田顧問は「新病院は〝災害に強い病院〟をテーマに、建物は免震構造にしました。旧病院では耐震基準を満たしていた北館も損壊が激しかったためです。厚生労働省が23年に行った調査では、全国の病院の耐震化率は80・5%、災害拠点病院や救命救急センターの耐震化率は96%ですが、そのうち免震化率は20%程度で高いとは言えない現実があります」と話す。
水が使用できなくなったことも病院避難の大きな要因だったため、ライフラインをすべて多重化。受水槽はスチール製よりも強い銅板製のものを採用し、さらに井戸も使用できるよう整備した。電源を2系統にして発電機も2種類設置。
食料や医薬品、器材の備蓄も強化し、発災後3日間は応援物資なしで運営できる体制を整えた。
1階には十分なスペースのあるエントランスホールを設け、待合にはベッドにもなるソファを設置するなど、非常時には避難場所となり、トリアージや患者の治療もできるように備えている。屋上にはヘリポートも新設した。その後DMATの編成なども行い、同院は25年、災害拠点病院の認定を受けている。
地域では、行政が中心となって医療機関や関係組織による会議が活発に開かれ、災害時の医療提供体制についても議論されている。
20年には、同院を含む県内の11病院を対象に、災害医療に関して専門的な訓練を受けた医師を「熊本県災害医療コーディネーター」と認定するなどして、県と一体となって災害医療対策に取り組んでいる。
■職員の経営意識を醸成し、活発に業務改善を行う
田顧問は「病院建て替えにあたっては非常に大きな支援を受け、また、負債も多く抱えた状態となったため、新病院では経営改善を余儀なくされています。職員には経営状況をガラス張りにして経営意識を醸成し、みんなで診療実績を上げるよう取り組んでいます。たとえば、病診連携の充実に努める、救急をすべて受け入れられる体制をつくる──などです。建て替え中に他病院での勤務を経験したことで当院の〝強み〟も見えるようになったそうで、帰属意識の向上につながっている面もあります。
震災から10年以上経ち、あの地震を経験した職員の割合も少しずつ減り、看護師では半数近く、医師では5分の1になっています。院長在任中は、当時のことを新入職員研修時などに詳しく伝えていました。職員みんなが苦労して新病院完成までつないできたことや、地震で得た経験をこれからの若い世代にも伝えて、災害に強い病院であり続けたい」と語る。
(フェイズ・スリー 2026年6月号掲載)